信濃の名族として知られる滋野氏流を称する海野氏の傍流とされる。
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江戸時代に作成された『真田家系図』に拠れば、真田氏は清和源氏の発祥で、信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の海野棟綱あるいは真田頼昌の子とされる真田幸綱(幸隆)が小県郡真田郷を領して以後、真田姓を名乗ったとされる。近世には、大名の多くが自家の系図づくりを行い出自を名族に結びつける傾向にあり、真田氏系図も信州松代藩主家となった真田家が作成したものであり、真田氏が清和源氏の出であるとする説は疑問視されている。
そもそも本家となる海野氏が滋野氏嫡流を名乗っているので、清和源氏とする出自は信憑性の面から注視されていない。また、真田郷が古代の官牧地域であることに着目し、国牧管理者の大伴氏が土豪化して真田を称したとする説も見受けられる。
「滋野氏三家系図」によると、鎌倉時代中期の海野長氏の子・幸春(海野幸氏の孫)を「真田七郎」 としている。これが系図に登場する真田の始まりとなる。
『大塔物語』に拠れば、室町時代の応永7年(1400年)守護小笠原氏に対する国人領主の抵抗として起こった大塔合戦において、大文字一揆衆の大将の一人禰津遠光(滋野三家の一つ禰津氏)の配下に「実田」(真田の誤字、あるいは実田を「さなだ」と読む)の名が見られ、「実田=真田」とすると初見となる。また永享12年(1440年)の「結城合戦」に参陣した禰津遠光の配下として、真田源太・源五・源六が居たとする説もある。これからの事から、当初は根津氏の支流だったのではとの見方がある。
応仁2年(1468年)の「海野大乱」と呼ばれる海野氏幸と村上頼清の戦いでは、真田郷の洗馬城が戦場となっており、この時期に真田氏が存在していたのなら、この戦いに巻き込まれていたと思われる。
はっきりしているのは、戦国時代のはじめころ、信州小県郡の山間にある真田郷に真田幸隆と名乗る在地の小豪族がいたという事である。
小豪族時代
真田氏最初の拠点は真田郷の北西にある洗馬城とされ、その後中央部の平坦地に内小屋城を築いた時期に真田郷全域を掌握したと思われる。天文10年(1541)の海野平の戦いでの真田氏の動向は資料に無いが、戦いに敗れた海野棟綱が関東管領の上杉憲政を頼って上野国に逃れるのと同時期に、幸隆も上杉憲政の家臣で上野国箕輪城主長野業正の下に身を寄せているので、当時は近隣の有力勢力である滋野一党に組み込まれて海野方で戦ったことが想定されている。
武田家臣時代
真田昌幸(部分)上杉の援助による旧領奪回が困難になると信濃侵攻を行っていた甲斐の武田晴信(武田信玄)に仕えて、旧領を回復すると共に旧知の滋野氏の支族が多い信濃や上野方面で活躍し、真田氏の勢力基盤を築く(この時期の本拠地は真田本城)。武田家中においても、信濃先方衆の有力武将として幸隆のみならず嫡男信綱も武田家臣団において活躍し、三男昌幸は武藤家を、四男信尹は加津野家をそれぞれ継ぐなど、真田一族は武田家において重用されていたことが伺える。
永禄10年(1567年)嫡男信綱が家督を継ぎ、1575年の長篠の戦いで当主信綱と次男昌輝が討死すると、武藤喜兵衛と称していた三男昌幸が真田姓に復帰して家督を相続する。昌幸は信玄の近習を勤めたこともあり、武田滅亡時に武田勝頼に真田の影響力が強い吾妻山中の要害の地岩櫃城に篭ることを進言したとされる。
武田滅亡以後
昌幸は武田氏が滅んだ後織田信長に恭順した。しかし、本能寺の変で信長が横死すると、昌幸は本拠地として上田城の築城に着手しながら、混乱する信濃に在って主家を転々と変え、真田家の勢力維持に奔走する。
徳川氏と後北条氏が甲信を巡って対陣した天正壬午の乱、その後の和平において「上野は北条領とする。そして真田氏の沼田城周辺も北条に割譲するが、その代替地は徳川が用意する。」と定められた。しかし昌幸はこれを拒否、その過程で徳川軍7千の攻撃を受けるも、僅か2千余りの城兵で上田城を守りきる(第一次上田合戦)。徳川と北条という大勢力の狭間にあって両家を翻弄し、これが小田原の役、北条氏滅亡へと繋がっていく。豊臣氏と北条氏との交渉の争点であった沼田領、そして発火点となった猪俣邦憲の名胡桃城事件において、昌幸は当にその当事者であった。
最終的に昌幸は上杉景勝を通じて豊臣秀吉の臣下に入り、秀吉の命で徳川家康と和解する。そして徳川氏の与力大名とされたことから、嫡男信幸と家康の養女小松姫(実父は本多忠勝)との婚姻が行われた。これらの過程で真田宗家は、名目上は徳川氏の与力大名だが実際は豊臣の家臣である昌幸・信繁(上田城)と、名目上は昌幸領の一部だが実際は徳川の与力大名である信幸(沼田城)の2家体制となる(信幸の真田家が、江戸幕府から外様大名ではなく譜代格として扱われる由縁とされる)。また、加津野家を継いだ信尹も武田家滅亡後は真田姓に戻り、北条・徳川・蒲生と主家を変えてながら真田分家を興す。
1600年に五奉行の石田三成らが五大老の徳川家康に対して挙兵し、関ヶ原の戦いが起こると、昌幸と次男信繁(幸村)は西軍に、長男信幸(信之)は東軍に分かれる。昌幸と信繁は上田城にて徳川秀忠率いる約3万の軍勢をわずか数千(2千?5千の諸説あり)で迎え撃ち(第二次上田合戦)、秀忠軍が関ヶ原の戦いに間にあわなかった原因と言われた(主要因は悪天候との説もある)。しかしその努力のかいもなく、戦いは東軍の勝利となり、戦後に昌幸と信繁は紀伊の九度山に蟄居となり、代わって信之(信幸改め)が上田領を引き継ぐ。
江戸期以降
大坂の陣では信繁(幸村)は大坂城に入り豊臣方として、信之は徳川方として戦った。この戦いで信繁(幸村)は討死し、信之は戦功を上げ松代藩13万石へ加増移封となった。1634年には沼田領を預かる長男の真田信吉が死去、次男の真田信政が沼田領を継承して、後に松代藩の2代藩主となる。3代藩主の真田幸道は幕府の普請事業などを務める。またこの時、真田信吉の次男真田信利を藩主として沼田藩3万石が分離している。
5代真田信安は千曲川改修工事などを行う。6代真田幸弘は恩田民親(木工)を登用した藩政改革を行い中興の祖となる。松平定信の子である8代藩主幸貫は老中となり、佐久間象山を登用して殖産興業政策を行う。譜代大名扱いとはいえ、祖先である昌幸親子が徹底的に家康と争った過去を考えれば破格の待遇といえよう。
なお、7代藩主真田幸専は彦根藩井伊家からの婿養子であり、幸専には嫡子がなかったため、遠州浜松藩井上家から養女を取り、その婿養子として松平定信の2男幸貫を迎え、8代藩主となった。したがって、厳密な意味では幸隆から始まる真田氏の血筋はここで途切れていると言える。
幕末には宇和島藩主伊達宗城の子で養子に入った真田幸民が新政府側に属して会津戦争などに従軍する。幸民は藩知事となるが、松代騒動と呼ばれる一揆が起こり隠居する。松代藩は廃藩置県で消滅し、真田氏は子爵(のちに伯爵に陞爵)となる。明治以降の当主は幸正(幸民の子)、幸治(幸正の子)、幸長(幸治の子)、幸俊(幸長の子、現当主)と受け継がれた。
また、島津氏は大坂の陣にて真田氏を評して「日本一の強兵」と賞した。これは島津氏が戦人として本心から真田軍の戦いぶりに絆され褒め讃えたことと同時に、二代将軍秀忠が真田攻めを原因に関ヶ原の合戦を遅参したという汚名をそそぐため、「日本一の強兵が相手なら、秀忠が手こずるのも仕方無い」という政治的理由により真田を必要以上に讃えたと言われる。
真田分家となる信尹は、蒲生氏郷の死後は徳川家に帰参して旗本奉行を勤め、大坂の陣では家康の使者として信繁(幸村)に「信濃一国」または「信濃で10万石」を条件に交渉するなど歴史に名を残し、幕末まで続く旗本真田家を残す。また公には途絶えたとされる信繁系統も、二男の血統が仙台真田家として残された。
真田氏の家紋
真田氏の家紋(旗印)としては六文銭と通称される「六連銭」が有名で、「六文銭=真田」とのイメージが広く浸透している。そして、真田氏がこの家紋を用いたのは、幸綱(幸隆)が武田氏に臣従した際との逸話が残されている。
真田氏の源流である海野氏は滋野氏嫡流を名乗り、滋野氏の家紋である「月天七九曜」に因み「月輪七九曜」を家紋にしていた事がわかっている。しかし、江戸時代に岡部藩として存続した駿河安部谷の安部氏や越後長尾家(後の上杉家)の記録にある上州吾妻郡の羽尾氏、「長倉追罰記」に記載された羽田氏など、海野氏流を名乗る支族の家紋(旗印)に六連銭が登場する。これらは幸綱が武田氏に臣従する以前から六連銭(または、その類似紋)を用いていた痕跡があり、真田氏を含む海野氏流支族の六連銭は、本家の海野氏からの継承ではないかとの見方がある。
現在のところ海野氏が六連銭を用いた確かな史料は無いが、日本家紋研究会によると「六連銭は真田氏独占の家紋ではなく、信濃国北部一帯に勢力をもった大族滋野氏の代表家紋である」としている。
なお、真田氏の家紋としては「結び雁金」「州浜」なども使われる。主に六連銭は戦時の旗印として、結び雁金などはそれ以外の場で使われたが、徐々に六連銭の使用頻度が高くなり、江戸中期以降はあまり使われなくなっている。
また、大坂の陣のおける真田幸村(信繁)は「六文銭の旗印」と共に家康本陣に突入したと思われ勝ち(一部ドラマなどで、六文銭を旗印にしている為)であるが、大坂の陣では終始「総赤に金線」を使用している。これは徳川方についた本家の真田家に対する気遣いとされている。
研究史
真田氏は近世大名として存続していることから多くの家伝文書は藩政史料が現存しており、家史編纂の遅れや享保16年(1731年)の江戸藩邸焼失で失われた文書も多いものの、現在では1981年に『真田家文書』(米山一政編)として刊行されている。また、松代藩士の私選書である『真武内伝』や『滋野世記』、幕末に編纂された『真田家御事蹟稿』などの編纂物もあり、真田氏研究の基本文献となっている。
近代には昭和戦前期に藤沢直枝が『真田文書集』(1940年)において関係文書を紹介し、猪坂直一は『真武内伝』等の編纂物のほか西上野の史料である『加沢記』や軍記物である『甲陽軍鑑』などの史料も活用して『評伝真田一家』(1940年)『真田三代年表』(1932年)『真田三代録』(1980年)などの定本を著述している。
昭和戦前期には史料紹介や戦記類が中心であったが、戦後には『信濃史料』や『群馬県史』など自治体史類の刊行や、武田氏、後北条氏など真田氏とも関係する戦国大名研究の進捗に伴い実証的研究が本格化している。小林計一郎は『真田一族』(1873年)において数々の新見解を示しているほか、近世の真田藩政史では上野国吾妻群や沼田藩政史の研究を行った山口武夫、松代藩政史の研究を行った田中誠三郎らがいる。ほか、真田氏の近世大名化の過程を検討した河内八郎や山岡信一、吾妻郡攻略に関する唐沢定市、系譜考証の寺島隆史、武田氏研究の立場から研究史の整理や領国形成過程に関して検討を行っている堀内亨や柴辻俊六らがいる。
系譜
太字は当主、太線は実子、二重線は養子
棟綱か頼昌
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幸隆
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信綱 昌輝 昌幸 信尹 信春
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昌幸 信興 信正 信繁 信之 昌親 信勝 幸政 信勝
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之親 幸信 守信 幸昌 信吉 信政 信重 信親 幸信 幸吉 信豊
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辰信 熊之助 信利 信就 信守 大学 百助 遠山政亮室 小出有重室 土岐頼長室 鎌原重俊室 青山忠雄室 幸道(信房) 幸頼 信紀
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信成 信音 勘解由 信弘 源次郎 幸隆 信積
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信経 権之助 信清 真田某 幸詮 六郎 信安 吉之助 俊峯 蓊信 照 本多忠盈 一柳末栄室 幸久 信育
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信親 敬寛 幸弘(幸豊)房 真田某 藤 小次郎 幸定 信緜
┃ ┏━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━┫ (松浦政室)(松平忠恕室) ?
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ? (建部政賢室) ?
信珍 滋松 真田某 貴 年五郎 真田某 栄之助 幸専 幸充
? (井上正甫室) (井伊直幸四男) ?
? ┃ ? ?
信凭 (真田幸貫妻) 幸貫(幸喜) 幸徳
? (松平定信次男)
? ┏━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━━╋━━━━━━━┳━━━┳━━━┓
? ┃ ? ? ┃ ┃ ┃ ?
幸清 小太郎 政(信) 幸忠 幸良(幸栄) 六之助 鐵之丞 幸教(幸孝)
┃ (松平定信養女)(松平忠馮七男)(一時松平定信養子)(海野氏) (真田幸良男)
┃ (朽木綱条室) ┃
幸歓 幸教(幸孝)
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┃ ┃ ┃ ? ┃ ┃
雄若 豊松 真田某 幸民 政子 芳子
(伊達宗城次男)(石川成徳室)(本多忠敬夫人)