2009年07月02日

九州大学には大学歌はないが

九州大学には大学歌はないが、3つの学生歌と1つの応援歌がある。なかでも秋山喜文作詞の学生歌「松原に」が学生に知られている。
ロゴマークは円形に配した松葉に大学の文字が入ったものである。このマークは、1950年から用いられるようになった、宗好秀による学生バッチの図案を基にして2004年に新たに制定されたもので、商標登録されている。この他にKUやQを図案化したものなどがある[1]。
スクールカラーはワインカラーである。いくつかのサブカラーも用意されている。
学力向上!漢字王国
白い花の花言葉
北の国・北海道マップ
暮らしの知恵袋
ラファエロのタレントになる学校選び
ハンズの野球のツボ
マーメイドの地図探し
ゆかいな塾の先生
炎神でアニメソングメドレー追跡
懸賞の秘密ちゃんねる
健康一番玉手箱
Carタイムへ急げ
芸能界デビューのチャンス
ひだまりの湘南ビーチ
奥様ご用達ご当地グルメ
仕事探しはここからスタート
初心者の投資問題解決!
姉妹の温泉三昧
フラッシュのオーディション参加
省エネルギーのコツを紹介
生活費の節約法
ドライブ計画サポートスペシャル

環境創造舎[1]と地元の杉能舎が共同で「九州大吟醸」を製造して販売している。売上金の一部は九大新キャンパス移転地域の環境保全活動、文化の保全活動に役立てられる。

九州大学の学生を福岡では「いも九」「「イモQ」」(いもきゅう)と呼んでいた時代がある[2]。垢抜けない(=イモな)九大生という意味である[3]。しかしながら「いも九」は身なり構わずひたすら勉学や運動などに打ち込む九大生への愛称、尊称であって決して蔑称ではない[4]。 この呼び名を九州大学経済学部のOBである『五十二萬石如水庵』の社長森恍次郎氏が面白がって、生協と協力して芋餡のパイ菓子を九州大学応援菓「いも九」として売り出している。この菓子の売り上げの1%は、「九州大学学術研究・教育奨励助成金」として九大生の課外活動の費用に寄付されている。

2009年06月13日

2成分の絡み目 L の成分 L1 と L2 に向きを指定

2成分の絡み目 L の成分 L1 と L2 に向きを指定したとき、絡み数 (linking number) という量が定義できる。L の射影図における各交点に対して向きの関係によって下図のように "+1" または "−1" の符号を対応させ、L1 と L2 の交点の符号の総和を 2 で割ったものを L の絡み数という(異なる成分からなる交点の数は常に偶数なので絡み数は必ず整数値をとる)。絡み数は向き付けられた絡み目の不変量となる。絡み目のどちらか片方の成分の向きを逆にすると絡み数の符号が反転するので、絡み数は絡み目不変量ではない。しかしその絶対値は絡み目の不変量になる。
ハンドボール
ジーンズ
衛星
フラダンス
白地図
計算化学
茶道
フットバッグ
年金
船舶工学
免疫学
フードテーマパーク
生活習慣病
映画史
スクエアダンス
化学工学
ストリートダンス
地球
人形劇
生態系

結び目(絡み目)の射影図において、ある交点から別の交点までつながった一部分で、両端の交点では下を通るが途中では(上を通ったとしても)下を通らない場合にそれを道と呼ぶ。ただし自明な結び目の射影図も道とする。 このように道という語を定義したときに、射影図の各交点に3つの道が集まることになる(ただしそのうち2個は重複している可能性もある)。 ここで以下の2つの条件をともに満たすように結び目(絡み目)の射影図の道を3つ以下の異なる色で彩色できるとき、その結び目(絡み目)は三彩色可能であるという。

任意の交点において、その交点に集まる3つの道は全て同じ色に塗られている、または3色の異なる色で塗られている
射影図全体に2色以上の色が使われている
たとえば三葉結び目、自明な2成分の絡み目が三彩色可能であるのに対して八の字結び目、ホップ絡み目、ホワイトヘッド絡み目は三彩色不可能である。 三彩色可能性は結び目不変量となる。 よって三葉結び目が解けていないこと、三葉結び目と八の字結び目が異なる結び目であること、ホップ絡み目やホワイトヘッド絡み目が自明な2成分の絡み目でないことがわかる。

多項式不変量 [編集]
結び目の不変量で、特に多項式となっているものを多項式不変量という。これには、伝統的に、正負の(分数)冪を許す多項式不変量も含まれる。多項式不変量の最初の例は、1928年にアレキサンダーが構成したアレクサンダー多項式である。これは絡み目の補空間の基本群から定義できる。その後、コンウェイによるアレクサンダー多項式のスケイン関係式による再定式化(アレキサンダーコンウェイ多項式)を経て、1984年にジョーンズによって全く新しい多項式不変量ジョーンズ多項式が発見された。これは長らく唯一であった多項式不変量に新たな種類を付け加えたのみならず、統計力学や量子場の理論、量子不変量、量子群など他の分野との関連の膨大な研究を生み出すことになった。さらにその後アレキサンダー多項式、ジョーンズ多項式をそれぞれ特殊な場合に含むホンフリー多項式が発見され、これらの他にも幾つかの多項式不変量が知られている。

残念なことに上に挙げたどの多項式不変量も完全に結び目を分類することは出来ない。つまり同じ多項式の値を持つ異なる結び目が存在するのである。しかし、スケイン関係式を満たすどんな多項式不変量も、完全には結び目を分類できないかどうかなどについてはまだわかっていない。

2009年06月09日

20世紀になり、医者は患者の健康を劇的に

20世紀になり、医者は患者の健康を劇的に改善する技術の向上に力を注いだ。これは、しかしながら、心のない、機械的な治療として非難されるようになった。1970年代になると、専門的な知識を集め、1980年代にはまとまった議論となりはじめた。

最も辛らつな批判を行ったのは、イヴァン・イリイチ『脱病院化社会』(Medical Nemesis、1976年)であろう。イリイチの意見では、現代医療は病気を取り除く際に健康を取り戻すことをせず、結果的に健康を損なっている。人間は、この見方では一生患者なのである。他の急進的な哲学者も同様の意見を述べているが、ここまで強く主張することはない。
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これらの現代医学への批判は、医学を教える大学・学校の教育課程に影響を及ぼしている。現在は教育時に医療倫理が重視され、生物心理社会的介入モデルや同様の概念などの全体論的医学の重要性を教えるようになっている。

現代医学が、多くの批判に応え切れていない現実から、代替医療に向かう多くの人がいる。これらは科学的にはまだ根拠に乏しいが、症状の改善が見られるという報告もある。

大学医学部または防衛医科大学校医学科を卒業すれば医師国家試験の受験資格が与えられる。東洋医学の単独の医師国家試験免許はない。日本では、医師免許があれば、西洋医学、東洋医学に分け隔てなく、医療行為を施すことが可能である。
西洋医学を中心する医学部と別に、中医学を専門に勉強する中医学部に分かれる。 西洋医学部を卒業すると医師免許受験資格を与えられ、中医学部を卒業すると中医師免許受験資格を与えられる。 日本との違いは、医師免許自体は、中医学系と、西洋医学系の二本立てであることである。

数年前から外国人の中医師免許相当の国際中医師免許も受験できるようになっている。


2009年04月25日

アナトリア半島

アナトリア(ギリシア語 Ανατολία, トルコ語 Anadolu)半島は、小アジア(半島)(Μικρά Ασία)とも言い、西アジアの一部で、現在トルコ共和国領土のアジア部分を構成している。

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文明の発祥地
アジアとヨーロッパを繋ぐ戦略的に重要な地点に位置するため、アナトリア半島は先史時代からいくつかの文明の発祥地となり、人類最古の定住遺跡と言われるチャタル・ヒュユクなどの数多くの遺跡が発見されている。

古くは単に「アジア」と呼ばれていたが、アジアはさらに東方に広大であることがわかり、「小アジア」と区別されるようになった。アナトリアの名称は東ローマ皇帝コンスタンティノス7世の時代、エーゲ海に面した西岸地方に軍管区(テマ)を置き、「アナトリコン」(ギリシャ語で日出る処の意)と名付けたことに由来する。

主要な諸文明
アナトリア半島に存在した主要な諸文明には以下が挙げられる。

ヒッタイト
ウラルトゥ
フリュギア
リディア
古代ギリシア
マケドニア王国
セレウコス朝シリア
アッタロス朝ペルガモン王国
ポントス王国
大アルメニア王国
ローマ帝国
東ローマ帝国
ニカイア帝国
トレビゾンド帝国
小アルメニア王国(キリキア・アルメニア王国) en:Lesser Armenia
セルジューク朝
ルーム・セルジューク朝
オスマン帝国

2009年04月08日

チップチューン

チップチューン(chiptune) は音楽ジャンルの一種であり、おもに1980年代に発売されたパーソナルコンピュータや家庭用ゲーム機に搭載されていた内蔵音源チップに代表されるような、制約の多い音源を用いて制作される音楽、またはそうした音源の音色を意識して作られた一連の音楽を指す。

黎明期 [編集]
チップチューンの起源ははっきりしないが、1980年代から、パーソナルコンピュータおよび家庭用ゲーム機の普及とともに徐々に形成されていったと考えられる。

当時のパーソナルコンピュータおよび家庭用ゲーム機の音源チップは、現在のように多様な音色を合成することはできず、生成できる波形の種類が限られていた。また、発音数にも大きな制限があったり、他にも処理性能に由来する様々な制限がある等、音楽表現のための道具としては不便なものであった。 そのため、それらの音源チップが主要な音楽演奏の手段として捉えられることはなく、ゲームの効果音やちょっとしたBGMを奏でるだけの手段として捉えられていた。

ところが、このような制限の中で奏でられる優れた音楽(特にゲーム音楽)に魅せられた人たちや、ゲーム機やパソコンで音楽を鳴らすという当時としては技術的にハードルが高い行為に面白みを感じた人などが、敢えて制限の多い音源チップで音楽制作に挑戦するようになっていった。これがチップチューンの原点になったと考えられる。この頃のチップチューンは、技術的なハードルを乗り越えて作るという制作プロセスに重点があり、音色そのものの魅力についてはそれほど着目されていなかった。

発展期 [編集]
その後しばらくは、チップチューンの発展はゲーム機・パーソナルコンピュータの発展とともにあったが、1990年代中盤から、ゲーム機・パーソナルコンピュータの演算性能の向上とともに音声合成の手段がより自然な音を再現できるPCM方式等に移行し始めると、チップチューンは独自の路線を歩み始める。 PCM方式を中心に据えた音楽制作は、制限の多い中での音楽制作というチャレンジの面白みに欠く、通常のシンセサイザーを用いて制作された音楽と見分けがつかなくなってしまうといった観点から、意識的・無意識的にチップチューンの対象から外され、専ら過去の8bit機などを用いる方向へと特化していったのである。ここに来て、ゲーム音楽とも切り離された、独自なチップチューンというジャンルが明確化したと言える。

一方この頃には、上記の流れと並行して、音源チップの音そのものに焦点を当て、最新の技術を使ってチップチューン的な音を再現する流れが登場する。 8bit機などの音源チップの音をサンプリングし、MOD 等によってPCで再現するなどの制作方法がそれである。

現在 [編集]
現在では、各種8bit音源チップの音をPC上で合成するソフトシンセなども登場して制作環境はさらに多様化し、制作プロセスよりも音色そのものに重点を置く流れがいっそう強まっている。 とはいえ、過去の8bit機等を敢えて用いて音楽を制作する方法も変わらず活発に行われているため、制作プロセスと音色の両面でチップチューンというジャンルを捉える必要がある。

また、チップチューンの音色を中心に様々な別の音色(ギター・ドラム・ヴォーカルなど)を加えた音楽も多く登場してきた。これらについても、チップ的音色の側に重点が置かれていればチップチューンと捉えられている。ただし、この分類は主観による部分が含まれ、一般的な定義は存在しない。

このようにチップチューンは現在も進化・変化を続けているジャンルであり、現に、チップチューンのコンテストがしばしば開催され、様々なチップチューン製作グループがミュージックディスクをリリースし続けているなど、一定の活気を示している。 また、チップチューンは、クラシックコンピューターの話題を中心とした多数のウェブサイト、音楽グループ、及び音楽アーティストに強い関心を持たれている。

音楽的な特徴 [編集]

音色 [編集]
チップチューンを外面から捉えた場合(すなわち、その制作プロセスをブラックボックスと考えた場合)の最も大きな特徴は、言うまでもなくその音色である。 チップチューンにおいて一般的であるPSGやFM音源といった音声合成方式は、矩形波や正弦波・三角波(あるいはそれらの単純な組み合わせ)といった極めてプリミティブな波形を生成する。そのため倍音構成は非自然的なものとなり、聴感的には無機質で機械的な響きとなる。

聴き慣れない人にとっては、黒板に爪を立てて引っかくような不快な音のように感じるかもしれないが、ヘヴィメタルなどで用いられている歪まされたエレキギターの音色が一定の支持を集めているように、チップチューンの機械的な音色を支持する人が少なからず存在することは不思議ではない。

アレンジ [編集]
今も昔もデジタル音声合成処理には処理能力の限界から来る発音数制限があるが、8bit時代の音源チップにおいてはその制限が顕著であった。例えばファミリーコンピュータでは、メロディ・コード演奏に自由に使える音は通常デューティー比を変化させた矩形波2和音と音量の制御が出来ない三角波1音とノイズのみである。

その影響は当然アレンジに大きく反映され、まず第一に、音の重ねによる重厚さを持たない「薄い」アレンジがひとつの特徴となった。 さらに二次的には、発音数の制限を補うチップチューン独特なアレンジ方法がいくつも生み出され、これがチップチューンのアレンジをさらに特徴づける格好となった。 よく知られた手法としては、以下のようなものがある。

高速アルペジオ
これは、単音で和音感を出すための工夫であり、高速でコードトーンに沿って音程変化させることで擬似的に和音を感じさせる。ピアノやハープ(竪琴)のように余韻を残せる楽器であれば高速である必要はないが、音源チップは余韻も発音数のひとつと数えてしまうので、余韻に頼らず、かわりに高速化することで発音数を節約する。
疑似エフェクト
現在ではデジタルエフェクトによる残響・反射音付加は特殊な機能ではないが、実はこれは非常に高度で計算量の多い処理であり、出力される波形は、加工されず、指定のポートからそのまま出力される。そこで、他のポートを犠牲にし、1ポートを重ねる音に割り当てることや、本来の音符に続いて音量を大幅に落とした同じ(若しくは若干のディチューンを掛けた)音符を鳴らすことで擬似的にディレイ・リバーブ効果を1ポートで実現する方法がよく用いられる。
また、チップチューン特有の手法以外で、独特な印象を与えるアレンジ上の特徴として以下のようなものがある。

デチューン
わずかに音程をずらした2つの音を重ねることできらびやかで広がりのある音色を得る、シンセサイザーなどで一般的な手法であるが、1和音余分に消費してしまう故に、和音数の少ないチップではその分バッキングが手薄になり、デチューンをかけたパートがいっそう際だつという特徴がある。また、デューティー比50/50の波形など、同じ音を鳴らした際に干渉してしまうことを防ぐ目的もある。
ベースの音域ジャンプ
コードバッキング音域の厚みを補強するため、本来ベースの役割を果たしているパートが部分的に高音域にジャンプしてコードバッキングを支えるという手法で、少人数のバンドなどでも見られるアレンジ法であるが、チップチューンの場合、あるパートが一拍ごとにベース音域とコード演奏音域を行き来するなど、めまぐるしい上下動が多いのが特徴である。

チルー オストメ ミモレ サイド ジャック プレクリ スコポフ きゅうてい スパイス ウフジ ラップ トーシュズ サイレン ノーカ キンセン チャイルド スター ホンコン デックス きゅう メトセク ルーキー バリヤー シュルレ フォトス フィブリン トリプタン ソユーズ ワゴン シェア すあわ ステージ ボケSEO ムルロ グルベド どふぇ ユニオ スマッ ブレテ アイス テーブル ファシズム 男船日本 未来地図 端玉アク シブシップ 長崎赤 ケイトウ モンゴ サイフォン

2009年03月24日

名鉄3550系電車

3550系とは、1943年8月に竣工し1988年まで名古屋鉄道に在籍した電車。
車体長18m級の3扉車。吊り掛け駆動のAL車(間接自動制御車)である。

車体 [編集]
激増した産業戦士(軍需産業従事者)の通勤輸送に対応するため、当時の名古屋鉄道としては異例の3扉車で、各扉にはステップがついている。1段上昇窓だが当初は横桟が入り2段窓に見えた(戦中戦後の窮乏期は3600系や3500系も同様。物資充足につれて1枚ガラス化)。3500系(初代)と同様の戦時設計で、モ3550形は両運転台車として設計され、乗務員扉は両端に設置されたが、実際に運転台を設置したのは片方のみである。なお、乗務員室は本系列まで仕切壁が運転席の背後のみ(他は金属製のバーで仕切る。いわゆる半室運転台または片隅運転台)という構造であった。

内装 [編集]
戦時輸送のため3扉ロングシートであり、特にク2550形は扉横の窓1個分×6箇所に座席が無く座席定員が少なかった。内装は最後まで木製・ニス塗りで、照明の蛍光灯化以外は原型をよく留めていた。

台車 [編集]
D-16およびD-18で、晩年はD-18に統一された。

編成 [編集]
モ3550形10両、ク2550形11両の計21両が製造された。Tcが1両多い。ク2561は他の形式と組み合わせて使用され、晩年は2扉セミクロスのモ3500形と組んだ珍編成であった。

モ3550(Mc) - ク2550(Tc)
[モ3500(Mc)] - ク2550(Tc)

沿革 [編集]
1943年にク2550形が先に登場。太平洋戦争中期?末期の製造であるため、新造(竣工)時は電動車の電装品(制御機器・電動機など)が不足しており、全車が付随車(電動機なし)として登場し、電気機関車に牽引されて「マル産・戦時型電車」として常滑線など軍需産業の工場通勤者輸送に使用された。戦後(1947年・昭和22年)にモ3550形が電装(電動車化)されて通常の編成運用に就いた。

1975年に3880系が導入されるまでは、本線系唯一の3扉車編成であったこと(3500系も登場時は3扉だが、モ3500形は後に2扉化改造のため晩年はク2500形3両のみ)が特長で、犬山線ラッシュ時の最混雑列車に重用されてきたが、6000系の増備が進んだことと、戦時中の製造で傷みがひどいため、1988年までに全車が廃車された。

キシラン ノート ローズ マッハ リボ デリバラ 田舎国 ゴマナ ゲート フォトモ ザンス カッコー コッチ チリン シャー タジーン メーカ ディング モード アップ クロゼ レイオ モラトリ ダイキリ サイリウム レセプト クオリア ロトロン シーラーズ プルマン タリフレ ハッチ カップ ブローシャー オレキシン タバーン ノード ビッシング ヒットラー タッチ きくま 深呼吸 ゾディア はつう パラコート マスコ 和銅 しちの トラック ビヨウ


2009年03月08日

北米植民地戦争

北米植民地戦争(ほくべいしょくみんちせんそう)は、17世紀から18世紀にかけて植民地時代の北米大陸で行われた一連の抗争の総称。各植民地戦争は欧州における国家間の戦争に呼応している。一連の抗争はアメリカ合衆国でのみFrench and Indian Warsと総称されるが、後述のフレンチ・インディアン戦争と紛らわしいので、ここでは表記のタイトルとする。フランス植民地であったケベックでは、Intercolonial Warsとも呼ぶ。

北米でのこれら戦争は、スペインやオランダが参加することもあったが、基本的には「イギリス、その北米植民地、同盟するインディアン部族軍」対「フランス、その北米植民地、同盟するインディアン部族軍」という構図で戦われた。拡張する英仏の北米植民地は西部あるいは内陸地域の支配権をめぐって競合し、ヨーロッパで戦争が起きると必ず北米大陸に波及した。一連の北米植民地戦争は次の通り。

名誉革命によって英王となったウィリアム3世 (イングランド王)は1689年欧州のアウグスブルク同盟に参加し、英仏の対立が開始された。このため、北米でも英領アメリカと仏領カナダが戦端を交えたが、決定的な結果を得ることができず、1697年のレイスウェイク条約によって鉾を収めた。

ウィリアム王戦争
アン女王戦争
欧州のスペイン継承戦争に呼応して開始された北米植民地戦争(1702年?1713年)で、英軍は仏領アカディアのポートロワイヤルを占領し、1713年のユトレヒト条約によってカナダ東部のニューファンドランド島とハドソン湾地域を獲得した。
マルバタ クロスレ シュール しばざくら アスク たいざん ロスカ チーズ 白爵南瓜 モルガ ユーボ 冬の星座 ライオン いろはに ピーク ハスカ リッペ リーズ ダイヤ 雪の駅 マネタ ファース グラス おくやま スピンオフ スカッド レンジャー レジスタ バルキー 寄居かぶ メキシコ へきぎょく ダージジ パサク はま スティン つるむら 京野菜 コリンズ プール ギミッ デカル マンネリ ハイガイド トークッシ ロンティー サイトバラ メガ最適 ミズム どうちゃく

アン女王戦争
ジョージ王戦争
欧州のオーストリア継承戦争に呼応して始まった北米植民地戦争(1744年?1748年)で、ニューイングランド植民地軍はカナダ東部の要衝ルイズバーグ要塞を陥落させたが、アーヘン条約(エ・ラ・シャペル条約)によって要塞をフランス側に返還した。せっかくの植民地軍の奮闘も欧州全域における英国の国益のために無視された格好となった。

ジョージ王戦争
フレンチ・インディアン戦争
フレンチ・インディアン戦争は欧州の七年戦争(1756年 - 1763年)の2年前から北米で開始された英仏植民地戦争(1754年 - 1763年)で、当初はインディアンと同盟したフランス軍が優勢だったが、最終的に英軍がケベック市とモントリオールを占領してカナダを制圧し、1763年のパリ条約によってカナダ全域を獲得した。フランスはフォンテヌブロー条約でもルイジアナ植民地をスペインに割譲し、北米の植民地を喪失した。

歴史的評価
戦争の進行につれて英国の優位が次第に明白となった。フランスのヌーベルフランス植民地(カナダ)に対して英国のアメリカ植民地が人口でも生産力でも優位にあり、フランスはインディアン同盟軍の効果的な使用によって補おうとしたが結局は英国に圧倒された。

皮肉にも英国の圧倒的勝利はニューイングランド植民地の喪失を招いた。フランスの脅威がなくなると、ニューイングランド植民地は英国の軍事的保護をほとんど必要としなくなり、むしろ新たに獲得したカナダがニューイングランドから分離支配されたことに不満を抱くようになった。これが結局はアメリカ独立戦争となって爆発することになる。

またウィリアム3世によって開始された英仏の抗争はナポレオン戦争終結まで続き、第2次百年戦争と呼ばれることもある。

2009年02月20日

大戦艦(だいせんかん)

大戦艦(だいせんかん)は、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』及び『宇宙戦艦ヤマト2』登場する架空の宇宙戦艦。

白色彗星帝国ガトランティスの艦隊戦力の中核を成す主力戦艦。段々重ねしたような高くそびえる艦橋とその背後にレーダーを連ねた塔、甲殻類と魚類を掛け合わせたようなデザインの細長い艦体が外観の特徴。全長は300メートルを超え、地球防衛軍アンドロメダ級戦艦以上の大型艦である。艦体色は彗星帝国軍の標準色の黄緑色。
フェルト オレキ マッチ キャム プロポ オオセンナ パドルボ ダカー 国道18号線 ストー ヤン サンゴ ウェー ジグラート ないえ ショルダ イチゴ マリネ シュラフ デュポン ジェイペグ 古時計 スペクト ビージ レベル ゲッケイ カーン マエスト ツルウ オギジ レアメ スキーマ ネオジム ラズライ トリトマ ビレイ きあか スフィン レザー ジャムウ ファイ ファクト オキナグ ハイクラ ケフェウ ペクシ スノー チェンジ スケイ ダカール

多数の同型艦が存在する。バルゼー率いる第6遊動機動部隊、配下のコズモダード・ナスカの前衛艦隊、11番惑星兵站基地守備の第25戦闘艦隊等、多方面に配備が確認されている。

特徴的な兵装として、艦橋下部に大型の2連装の衝撃砲と3連装衝撃砲がある[1]。 発射時は光線であるが、攻撃対象に命中すると螺旋状の衝撃波に変化する。地球防衛軍の巡洋艦、 駆逐艦を一撃で撃沈する威力を持ち、主力戦艦も撃沈している。発射は、バルセー総司令の命令で行われている。6話でコズモダード・ナスカ率いる強行偵察艦隊及び、19話に登場する第11番惑星兵站基地に配備されていた第25戦闘艦隊は衝撃砲を使用することなく、ヤマトにより撃沈されている。

その他の兵装として、地球防衛軍の装備する主砲とは対象的な回転砲身の大出力速射ビームカノンを主砲として多数装備。

諸元
全長 310 m  [382m][2]
全幅 87.7m [108m][2]
全高
基準排水量 63000t[230000t] [2]
主機
乗員 [450名] [2]
武装 回転式速射ビームカノン多数 
[主砲:10連旋回砲塔×3基] [2]
[舷側7連装旋回砲塔×4基] [2]
[艦首7連装光体砲翼×2基] [2]
衝撃砲
[大型2連艦橋砲×1基][2]
[3連艦橋砲×3基][2]

劇中での登場

さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち
バルゼーの第6遊動機動部隊の主力艦として多数登場するも、アンドロメダの拡散波動砲に撃破されるなど、目立った活躍は見られない。その後、バルゼーが地球に降伏を勧告しに、艦隊旗艦の超大型空母と大戦艦数隻引き連れて、都市上空に飛来して以降は登場していない。

宇宙戦艦ヤマト2
6話でコズモダード・ナスカ率いる強行偵察艦隊(前衛艦隊)の太陽系第11番惑星攻略戦で地球防衛軍と初めて交戦する。 ナスカは空間騎兵隊第11番惑星派遣隊の救援に向かうヤマトを阻止すべく、大戦艦5隻を差し向け撃滅を図るが、長距離砲撃を受け5隻中3隻が撃沈。その後、第11番惑星付近に到達したヤマトに残存艦隊3隻で再戦を挑むが、1隻が主砲で轟沈し、残りの2隻も1隻が艦首魚雷が命中し爆発、その艦体にもう1隻が衝突し全滅する。

18話よりバルゼー艦隊の主力として多数登場する。タイタン基地で指揮を執っていた土方竜へ部下がした報告から、少なくとも80隻が艦隊に加わっていることが伺える。

19話で第11番惑星探査のために上空に待機していたヤマトに、第11番惑星兵站基地のミサイル攻撃と、多数の大戦艦・駆逐艦から成る第25戦闘艦隊で挟み撃ちにしようとするが、波動砲により兵站基地もろとも消え去った。

21話にて土星決戦ではバルゼー率いる第2艦隊が衝撃砲で、地球防衛軍のヒペリオン艦隊を全滅させる活躍を見せた。しかし、地球連合艦隊の救援に駆けつけたヤマトのコスモタイガー隊の奇襲に遭い、衝撃砲で迎撃するも何隻か撃破されている。その後、バルゼー艦隊旗艦メダルーザが氷塊が漂う土星の輪で火炎直撃砲を発射したため、水蒸気による乱気流が発生し、僚艦同士が多数衝突。態勢を立て直した地球連合艦隊の砲撃の餌食になり、第1・第2艦隊は壊滅。

また、22話で地球連邦政府に無条件降伏を勧告する際、ラーゼラーが旗艦として使い、多数の駆逐艦を率い、地球本星の最終防衛線である戦闘衛星群を撃破し、地球連邦の首都メガロポリスの上空に飛来している。

商品化
公式なものはバンダイから発売されているプラモデルシリーズ宇宙戦艦ヤマト メカコレクションのみである。商品名は「白色彗星帝国軍 大戦艦」で、シリーズ番号はNo.14。シリーズの中でも再現度の高い傑作。しかしそのためパーツ数、細かさもシリーズ中屈指の物で、難易度は高い。特に艦首部分のフィンが全て別パーツになっており、本体側にもダボがないため、取り付けが困難である。 本製品は白色彗星帝国艦のみを集めたセット商品には入っていないため、このセットの宇宙背景の絵に固定するためのアームが付属する また、メカコレクションの中では少数派の、飾り台を本体に接着してしまう必要のあるキットである。

2009年02月04日

真田氏(さなだし)は信濃国の豪族である。

信濃の名族として知られる滋野氏流を称する海野氏の傍流とされる。
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江戸時代に作成された『真田家系図』に拠れば、真田氏は清和源氏の発祥で、信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の海野棟綱あるいは真田頼昌の子とされる真田幸綱(幸隆)が小県郡真田郷を領して以後、真田姓を名乗ったとされる。近世には、大名の多くが自家の系図づくりを行い出自を名族に結びつける傾向にあり、真田氏系図も信州松代藩主家となった真田家が作成したものであり、真田氏が清和源氏の出であるとする説は疑問視されている。

そもそも本家となる海野氏が滋野氏嫡流を名乗っているので、清和源氏とする出自は信憑性の面から注視されていない。また、真田郷が古代の官牧地域であることに着目し、国牧管理者の大伴氏が土豪化して真田を称したとする説も見受けられる。

「滋野氏三家系図」によると、鎌倉時代中期の海野長氏の子・幸春(海野幸氏の孫)を「真田七郎」 としている。これが系図に登場する真田の始まりとなる。

『大塔物語』に拠れば、室町時代の応永7年(1400年)守護小笠原氏に対する国人領主の抵抗として起こった大塔合戦において、大文字一揆衆の大将の一人禰津遠光(滋野三家の一つ禰津氏)の配下に「実田」(真田の誤字、あるいは実田を「さなだ」と読む)の名が見られ、「実田=真田」とすると初見となる。また永享12年(1440年)の「結城合戦」に参陣した禰津遠光の配下として、真田源太・源五・源六が居たとする説もある。これからの事から、当初は根津氏の支流だったのではとの見方がある。

応仁2年(1468年)の「海野大乱」と呼ばれる海野氏幸と村上頼清の戦いでは、真田郷の洗馬城が戦場となっており、この時期に真田氏が存在していたのなら、この戦いに巻き込まれていたと思われる。

はっきりしているのは、戦国時代のはじめころ、信州小県郡の山間にある真田郷に真田幸隆と名乗る在地の小豪族がいたという事である。

小豪族時代
真田氏最初の拠点は真田郷の北西にある洗馬城とされ、その後中央部の平坦地に内小屋城を築いた時期に真田郷全域を掌握したと思われる。天文10年(1541)の海野平の戦いでの真田氏の動向は資料に無いが、戦いに敗れた海野棟綱が関東管領の上杉憲政を頼って上野国に逃れるのと同時期に、幸隆も上杉憲政の家臣で上野国箕輪城主長野業正の下に身を寄せているので、当時は近隣の有力勢力である滋野一党に組み込まれて海野方で戦ったことが想定されている。

武田家臣時代

真田昌幸(部分)上杉の援助による旧領奪回が困難になると信濃侵攻を行っていた甲斐の武田晴信(武田信玄)に仕えて、旧領を回復すると共に旧知の滋野氏の支族が多い信濃や上野方面で活躍し、真田氏の勢力基盤を築く(この時期の本拠地は真田本城)。武田家中においても、信濃先方衆の有力武将として幸隆のみならず嫡男信綱も武田家臣団において活躍し、三男昌幸は武藤家を、四男信尹は加津野家をそれぞれ継ぐなど、真田一族は武田家において重用されていたことが伺える。

永禄10年(1567年)嫡男信綱が家督を継ぎ、1575年の長篠の戦いで当主信綱と次男昌輝が討死すると、武藤喜兵衛と称していた三男昌幸が真田姓に復帰して家督を相続する。昌幸は信玄の近習を勤めたこともあり、武田滅亡時に武田勝頼に真田の影響力が強い吾妻山中の要害の地岩櫃城に篭ることを進言したとされる。

武田滅亡以後
昌幸は武田氏が滅んだ後織田信長に恭順した。しかし、本能寺の変で信長が横死すると、昌幸は本拠地として上田城の築城に着手しながら、混乱する信濃に在って主家を転々と変え、真田家の勢力維持に奔走する。

徳川氏と後北条氏が甲信を巡って対陣した天正壬午の乱、その後の和平において「上野は北条領とする。そして真田氏の沼田城周辺も北条に割譲するが、その代替地は徳川が用意する。」と定められた。しかし昌幸はこれを拒否、その過程で徳川軍7千の攻撃を受けるも、僅か2千余りの城兵で上田城を守りきる(第一次上田合戦)。徳川と北条という大勢力の狭間にあって両家を翻弄し、これが小田原の役、北条氏滅亡へと繋がっていく。豊臣氏と北条氏との交渉の争点であった沼田領、そして発火点となった猪俣邦憲の名胡桃城事件において、昌幸は当にその当事者であった。

最終的に昌幸は上杉景勝を通じて豊臣秀吉の臣下に入り、秀吉の命で徳川家康と和解する。そして徳川氏の与力大名とされたことから、嫡男信幸と家康の養女小松姫(実父は本多忠勝)との婚姻が行われた。これらの過程で真田宗家は、名目上は徳川氏の与力大名だが実際は豊臣の家臣である昌幸・信繁(上田城)と、名目上は昌幸領の一部だが実際は徳川の与力大名である信幸(沼田城)の2家体制となる(信幸の真田家が、江戸幕府から外様大名ではなく譜代格として扱われる由縁とされる)。また、加津野家を継いだ信尹も武田家滅亡後は真田姓に戻り、北条・徳川・蒲生と主家を変えてながら真田分家を興す。

1600年に五奉行の石田三成らが五大老の徳川家康に対して挙兵し、関ヶ原の戦いが起こると、昌幸と次男信繁(幸村)は西軍に、長男信幸(信之)は東軍に分かれる。昌幸と信繁は上田城にて徳川秀忠率いる約3万の軍勢をわずか数千(2千?5千の諸説あり)で迎え撃ち(第二次上田合戦)、秀忠軍が関ヶ原の戦いに間にあわなかった原因と言われた(主要因は悪天候との説もある)。しかしその努力のかいもなく、戦いは東軍の勝利となり、戦後に昌幸と信繁は紀伊の九度山に蟄居となり、代わって信之(信幸改め)が上田領を引き継ぐ。

江戸期以降
大坂の陣では信繁(幸村)は大坂城に入り豊臣方として、信之は徳川方として戦った。この戦いで信繁(幸村)は討死し、信之は戦功を上げ松代藩13万石へ加増移封となった。1634年には沼田領を預かる長男の真田信吉が死去、次男の真田信政が沼田領を継承して、後に松代藩の2代藩主となる。3代藩主の真田幸道は幕府の普請事業などを務める。またこの時、真田信吉の次男真田信利を藩主として沼田藩3万石が分離している。

5代真田信安は千曲川改修工事などを行う。6代真田幸弘は恩田民親(木工)を登用した藩政改革を行い中興の祖となる。松平定信の子である8代藩主幸貫は老中となり、佐久間象山を登用して殖産興業政策を行う。譜代大名扱いとはいえ、祖先である昌幸親子が徹底的に家康と争った過去を考えれば破格の待遇といえよう。

なお、7代藩主真田幸専は彦根藩井伊家からの婿養子であり、幸専には嫡子がなかったため、遠州浜松藩井上家から養女を取り、その婿養子として松平定信の2男幸貫を迎え、8代藩主となった。したがって、厳密な意味では幸隆から始まる真田氏の血筋はここで途切れていると言える。

幕末には宇和島藩主伊達宗城の子で養子に入った真田幸民が新政府側に属して会津戦争などに従軍する。幸民は藩知事となるが、松代騒動と呼ばれる一揆が起こり隠居する。松代藩は廃藩置県で消滅し、真田氏は子爵(のちに伯爵に陞爵)となる。明治以降の当主は幸正(幸民の子)、幸治(幸正の子)、幸長(幸治の子)、幸俊(幸長の子、現当主)と受け継がれた。

また、島津氏は大坂の陣にて真田氏を評して「日本一の強兵」と賞した。これは島津氏が戦人として本心から真田軍の戦いぶりに絆され褒め讃えたことと同時に、二代将軍秀忠が真田攻めを原因に関ヶ原の合戦を遅参したという汚名をそそぐため、「日本一の強兵が相手なら、秀忠が手こずるのも仕方無い」という政治的理由により真田を必要以上に讃えたと言われる。

真田分家となる信尹は、蒲生氏郷の死後は徳川家に帰参して旗本奉行を勤め、大坂の陣では家康の使者として信繁(幸村)に「信濃一国」または「信濃で10万石」を条件に交渉するなど歴史に名を残し、幕末まで続く旗本真田家を残す。また公には途絶えたとされる信繁系統も、二男の血統が仙台真田家として残された。

真田氏の家紋
真田氏の家紋(旗印)としては六文銭と通称される「六連銭」が有名で、「六文銭=真田」とのイメージが広く浸透している。そして、真田氏がこの家紋を用いたのは、幸綱(幸隆)が武田氏に臣従した際との逸話が残されている。

真田氏の源流である海野氏は滋野氏嫡流を名乗り、滋野氏の家紋である「月天七九曜」に因み「月輪七九曜」を家紋にしていた事がわかっている。しかし、江戸時代に岡部藩として存続した駿河安部谷の安部氏や越後長尾家(後の上杉家)の記録にある上州吾妻郡の羽尾氏、「長倉追罰記」に記載された羽田氏など、海野氏流を名乗る支族の家紋(旗印)に六連銭が登場する。これらは幸綱が武田氏に臣従する以前から六連銭(または、その類似紋)を用いていた痕跡があり、真田氏を含む海野氏流支族の六連銭は、本家の海野氏からの継承ではないかとの見方がある。

現在のところ海野氏が六連銭を用いた確かな史料は無いが、日本家紋研究会によると「六連銭は真田氏独占の家紋ではなく、信濃国北部一帯に勢力をもった大族滋野氏の代表家紋である」としている。

なお、真田氏の家紋としては「結び雁金」「州浜」なども使われる。主に六連銭は戦時の旗印として、結び雁金などはそれ以外の場で使われたが、徐々に六連銭の使用頻度が高くなり、江戸中期以降はあまり使われなくなっている。

また、大坂の陣のおける真田幸村(信繁)は「六文銭の旗印」と共に家康本陣に突入したと思われ勝ち(一部ドラマなどで、六文銭を旗印にしている為)であるが、大坂の陣では終始「総赤に金線」を使用している。これは徳川方についた本家の真田家に対する気遣いとされている。

研究史
真田氏は近世大名として存続していることから多くの家伝文書は藩政史料が現存しており、家史編纂の遅れや享保16年(1731年)の江戸藩邸焼失で失われた文書も多いものの、現在では1981年に『真田家文書』(米山一政編)として刊行されている。また、松代藩士の私選書である『真武内伝』や『滋野世記』、幕末に編纂された『真田家御事蹟稿』などの編纂物もあり、真田氏研究の基本文献となっている。

近代には昭和戦前期に藤沢直枝が『真田文書集』(1940年)において関係文書を紹介し、猪坂直一は『真武内伝』等の編纂物のほか西上野の史料である『加沢記』や軍記物である『甲陽軍鑑』などの史料も活用して『評伝真田一家』(1940年)『真田三代年表』(1932年)『真田三代録』(1980年)などの定本を著述している。

昭和戦前期には史料紹介や戦記類が中心であったが、戦後には『信濃史料』や『群馬県史』など自治体史類の刊行や、武田氏、後北条氏など真田氏とも関係する戦国大名研究の進捗に伴い実証的研究が本格化している。小林計一郎は『真田一族』(1873年)において数々の新見解を示しているほか、近世の真田藩政史では上野国吾妻群や沼田藩政史の研究を行った山口武夫、松代藩政史の研究を行った田中誠三郎らがいる。ほか、真田氏の近世大名化の過程を検討した河内八郎や山岡信一、吾妻郡攻略に関する唐沢定市、系譜考証の寺島隆史、武田氏研究の立場から研究史の整理や領国形成過程に関して検討を行っている堀内亨や柴辻俊六らがいる。

系譜
太字は当主、太線は実子、二重線は養子
棟綱か頼昌

幸隆
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信綱    昌輝                            昌幸                      信尹  信春
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昌幸 信興 信正 信繁                         信之      昌親  信勝          幸政    信勝
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之親 幸信 守信 幸昌  信吉                     信政   信重     信親          幸信 幸吉 信豊
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      辰信 熊之助 信利 信就 信守 大学 百助 遠山政亮室 小出有重室 土岐頼長室 鎌原重俊室 青山忠雄室 幸道(信房)   幸頼 信紀
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      信成     信音 勘解由                 信弘                    源次郎  幸隆 信積
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      信経    権之助 信清        真田某 幸詮 六郎 信安 吉之助 俊峯  蓊信 照 本多忠盈 一柳末栄室 幸久 信育
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      信親        敬寛                  幸弘(幸豊)房 真田某 藤 小次郎          幸定 信緜
      ┃      ┏━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━┫  (松浦政室)(松平忠恕室)           ?
      ┃      ┃   ┃   ┃   ┃   ┃   ┃  ?  (建部政賢室)                 ?          
      信珍     滋松 真田某  貴  年五郎 真田某 栄之助 幸専                         幸充
      ?           (井上正甫室)         (井伊直幸四男)                      ?
      ?              ┃              ?                          ?
      信凭           (真田幸貫妻)          幸貫(幸喜)                     幸徳
      ?                           (松平定信次男)
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      ?        ┃   ?       ?        ┃       ┃   ┃   ?
      幸清       小太郎 政(信)    幸忠       幸良(幸栄)  六之助 鐵之丞 幸教(幸孝)
      ┃          (松平定信養女)(松平忠馮七男)(一時松平定信養子)(海野氏)   (真田幸良男)
      ┃         (朽木綱条室)             ┃
      幸歓                            幸教(幸孝)
                         ┏━━┳━━━┳━━━╋━━━━━━┳━━━━━━┓
                         ┃  ┃   ┃   ?      ┃      ┃
                         雄若 豊松 真田某  幸民     政子     芳子
                                 (伊達宗城次男)(石川成徳室)(本多忠敬夫人)

2009年01月21日

回転 (スキー)

回転(かいてん)は、スキー競技またはスノーボード競技のアルペン種目の1つである。スラローム(slalom)と呼ばれたり、SLと略される。ここでは、スキー競技の回転について解説する。

コース
スタート地点とフィニッシュ地点との標高差は男子が180mから220m、女子が130mから180m。旗門数は男子最小55-3、最高75+3、女子最小45-3、最高60+3。このコースに2本一組になった赤と青の旗門が交互に立ち、対になった同じ色の旗門の間を滑り、タイムを競う。2回目も同じゲレンデを使ってよいが、旗門設定は変えなければならない。2回滑ってその合計時間で順位が決定する。

装備
カービングスキーの登場で、それまで2m近くの長さを使用していた板が、選手の身長以下に短くなるなど、技術や用具の変化がめまぐるしい競技である。現在ではスキーの長さは、男子が165cm以上、女子が155cm以上となっている。

可倒式ポールが使われるようになってから滑走技術が大きく変化し、「逆手(さかて・ぎゃくて)」と呼ばれる、体をポールの内側に大きく倒して、ターンの外側の手(スノーボードでは前方の手)でポールを倒していく技術が一般化している。このため、選手は手(ストック)とすねにプロテクターを着ける。

特徴
回転はアルペンスキー種目の中でも、最も旗門の間隔が狭い種目である。それだけに、素早く正確なターン技術が要求されるため、滑降・スーパー大回転の「高速系・スピード系種目」と比較して、「技術系種目」と呼ばれる。ほかのアルペン競技ではほとんど見られない、旗門をまたいでしまう「カタハン(片足旗門不通過)」という反則がよく見られる。

スキー場が狭い、骨格が違うなどの理由で、スピード系に弱いといわれる日本アルペンスキー勢が唯一ワールドカップや五輪などの国際大会にて活躍が期待できる種目である。日本は世界最高峰のW杯でこれまでに5人の第1シード選手を輩出している(海和俊宏、岡部哲也、木村公宣、皆川賢太郎、佐々木明)。その他の種目においてはほぼ皆無である。

また、冬季五輪でも、1956年に猪谷千春が日本人として初の冬季五輪メダリストとなる、銀メダルを獲得している。近年では、2006年に皆川賢太郎が4位、湯浅直樹が7位に入賞している。

大回転(だいかいてん)は、スキー競技またはスノーボード競技のアルペン種目の1つ。ジャイアント・スラローム(giant slalom)、GS、リーゼンスラローム(riesenslalom)とも称する。アルペンスキー大回転においては、スキーの長さは男子185cm以上、女子180cm以上、回転半径(スキーのサイドカーブのきつさ)はR≧21mとなっている(FIS競技規則が変更され、08シーズンでは一部、09シーズンからはすべてのFIS公認大会で、男子R≧27m、女子R≧23mが適用される)。

平均斜度15度?20度の中斜面・急斜面を、約30m間隔で設置された旗門を交互に通過しながら滑り、2本の合計タイムを争う。
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アルペンスキーでは、回転に近い小刻みのターン技術と、スーパー大回転の持つスピード感を併せ持ったダイナミックな種目で、人気が高い。アルペンスキーの基本の種目とされることがある。他の種目同様に、カービングスキーの登場によって競技技術に革新的変化が起こった。スーパー大回転・滑降が高速系種目と呼ばれるのに対して、回転・大回転は技術系種目と呼ばれる。

アルペンスノーボードでは1998年よりパラレル大回転が冬季オリンピック公式競技となっている(スノーボードは左足が前になるレギュラースタンスと、右足が前になるグーフィースタンスとがあるため、アルペンスキーとは違いパラレル大回転では左右対称の旗門設定になっている)。この種目は大回転競技が一つのコースを全選手が1人ずつ滑るのに対し、並行して設定されたコースを2人が並んで同時に滑走する。まずは1人で1本滑ったタイムで予選を行い、上位16位までが決勝トーナメントへ進出。決勝トーナメントでは2名が同時に滑走し、早い者が勝ち抜けていく。タイムが重要であることは変わらないが、勝者と敗者、速いか遅いかが一目瞭然で、観戦の娯楽性がより強い競技になっている。

スーパー大回転(-だいかいてん)は、アルペンスキーの競技種目の1つで、滑降とともに高速系種目に分類され、滑降と大回転の中間に当たる。スーパーG、SGとも表記、呼称される。アルペンスキーの競技種目の中では最も歴史が浅く、冬季オリンピックの正式種目に採用されたのは、1988年のカルガリーオリンピックからである。

コース
冬季オリンピック、アルペンスキー世界選手権、アルペンスキーワールドカップでは、標高差は男子では500m - 650m(例外措置で450mまで引き下げることが可能)、女子では400m - 600mに設定される。

旗門は4本のスラロームポールと2枚のフラッグで構成され、赤と青を交互に設置しなければならない(この点は滑降とは異なる)。最高旗門数は標高差の10%未満、最低旗門数は男子35旗門、女子30旗門となっている。最低旗門数にカウントされるのは方向転換が必要な旗門のみである。旗門のターニングポールの間隔は25m以上でなければならない。

滑降よりもターンの技術が要求されるようなコースが設定されるが、それでも最高速度で100km/hを超えることもある。 地形的に可能であればジャンプを設定することも可能である。

装備
装備は滑降に近く、ヘルメットの装着義務がある。空気抵抗を少なくするため、クローチング姿勢をとった際、体に密着するよう曲げられたストックが使用される。 スキーは、長さは男子は最短205cm、女子は200cm(-5cmの許容差が認められている)、最低回転半径33m以上と決められている。

競技
スーパー大回転の競技は1本で行われる。この点は滑降と同じで大回転(2本)とは異なる。滑降では公式練習が行われるが、スーパー大回転では公式練習は実施されず、インスペクション(事前のコースの下見)のみで競技が行われる。